リレー執筆

リレー執筆第11回/H28年2月5日  塔筋 幸造
オンリーワンを目指して、中小企業が勝つためのネット販売戦略をVRIOで考える

 アマゾンと聞いて、南米の国を連想するよりインターネット販売の会社であることを、最初に考える時代となりました。アマゾンのビジネスモデルは「ロングテール戦略」ですが、これは余り数の売れない商品も品揃えに入れて、全体的に売上や利益を出す戦略です。
 これは従来のパレートの法則「売上の80%は、売れ行きの良い20%の商品で構成される」という法則とは違い、アマゾンでは書籍などの場合「1種あたりの販売数量の少ない80%の商品群」を取り扱い、つまりロングテール部分で売上の半分をつくる販売戦略をとっています。

これを可能にするのはネット販売で、膨大なアイテム(商品)を低コストで取り扱うことができるために、ヒット商品の大量販売に依存することなく、ニッチ商品の多品種少量販売によって大きな売り上げ、利益を得ることができるということになります。
 本来、ニッチな商品を扱うこと自体は中小企業の得意分野ですが、アマゾンのように大手の販売業者がロングテール戦略でのニッチな分野を収益源としている現状をふまえ、中小企業が勝てる戦略とするためには具体的にどういった方法を構築すべきかを検討する必要があります。

 アマゾンの強みについて考えてみると、ブランド力(知名度)優れた流通のノウハウ(配送経費)が上げられます。ネット販売では、これらの利点を中小企業も吸収しある程度の競争力を確保することができます。 ロングテール商品は顧客が自ら探すという商品であり、大手だから買うというよりも、この商品だから買うといった志向が強く働きます。

 重要なことは、大手企業のEコマースを用いたネット販売というビジネスモデルは意外と単純であり、中小企業も模倣可能であるこという事実です。アマゾンほどの商品範囲と規模を実現するのは困難ですが、後発であってもニッチ市場に合わせて商品ジャンルを絞り「珍しいだけ」では売れないことを理解した上で、他社競合の影響を極限まで回避した「自社の強みを活かしたネット販売」(BtoC BtoBを含む)構築は可能なはずです。

<ロングテールを意識したWEBサイト作り>
 ニッチ商品を扱う中小企業のSEO対策を考えてみましょう。ブラウザ上で「探す」主流は検索エンジンになりますが、アクセス数を多く集めているWEBサイトにおいては、一部の人気キーワードからのアクセス数よりも、アクセスの少ないキーワード(ロングテールキーワード)を積み重ねたアクセス数が上回ることがほとんどです。
 具体的にはヒットさせたいキーワードをページ内のテキストにし、それが競合の少ないニッチなキーワードであれば本格的なSEO対策を施さずに上位にヒットさせることが可能です。ブログなどが検索ヒットするのがよい例ではないでしょうか。
 さらにヒットさせたいキーワードをテーマに1つのWEBページに1つのメインテーマを持たせることも基本になります。基本となる1ページ1テーマにすることでブレないテーマ作りも可能になります。
 また、既存のWEBサイトにヒットさせたい場合は、新しいコンテンツページを制作する必要があります。これは作り直す感覚に近いですが、新しいコンテンツをどんどん増やすことで様々なキーワードから流入する間口を広げることになります。

 情報は出すところに集まるといわれるように、少しまめな手当が必要ですが、自社のニッチな商品に対してだけなら、この作業は大手の作業に比べてとても効率的です。検索エンジンのクローラーは、更新頻度の高いWEBサイトへ頻繁に訪ずれ、更新頻度の少ないサイトへは、頻繁に訪れなくなります。
 新しいページを作成しても、それが認識されるのに時間がかかれば、メリットは少なくなります。サイト自体を強くする必要がある。これは、全てのSEOに共通する点ですが、検索エンジンに優秀と認められたサイトは、それらに関連する全てのページに対して、重要度が振り分けられ、上位表示されやすくなります。
  ロングテールSEOを行う上で、最も重要視しなければならない要素はキーワード選びです。検索数に対してライバルの少ないキーワードを選ぶ必要もありますが、特定の分野でのノウハウをもつ企業ならこの作業で大手との差別化がはかれます。
 中小企業ならではの強みが活かせる。そして、WEBサイトの更新が自社で行えるかどうか、継続的に行えるかどうかが成否を決定します。

[無断転記厳禁]


リレー執筆第12回/H28年3月31日  橘 雅清
私の体験

 桜の季節になり、多くのスキー場では今シーズンの営業を終了した。今シーズンは全国的に雪不足のスタートで、1月にまとまった雪が降るまで本格オープンできないスキー場も少なくなかった。その大雪からしばらくたった平日の午後、私は1人、あるスキー場にいた。自分独りで滑りに行ったという意味ではない。スキー場全体で滑っているのは自分だけという贅沢。貸し切りにできるほど大金を持っているわけはなく、買ったのは午後リフト券1枚のみである。リフトの係りの方によると、その日の一般客は5人だけであり、もうすぐ1人滑りに来るとのこと。

さすがに心細かったので、リフト乗り場近くに写っているスノーボーダーがやって来たときには正直ほっとした。(ゲレンデ中腹の人影は作業しているスタッフである。)だが、いくら平日とはいえ客が5人では経営など成り立たない。
 実は15時までは小学校の団体客がいた。このスキー場は地元の学校に連日利用されているとのことであった。
 その日、こんなことがあった。
@私がリフト券を買いに行ったとき、売り場は閉まっており人がいなかった。困っていたら遠くから係りの人が駆け寄ってきて対応してくれた。
A団体客とはお昼の時間をずらそうと思い、入れ違いにセンターハウスの食堂へ向かったのだが、どのテーブルにも団体客の荷物が置かれたままで、店内の照明は消されており、店員さんも引き上げてしまっていた。うっかり入ると泥棒だと思われ兼ねない状況である。(もう1件の食堂は店内の一角だけは占拠されておらず、店員さんもいたのでどうにか食事にありつけた。)
 これでは一般客は離れるだろうと思った。だが、戦略としてターゲットを学校の団体客に絞ることで生き残りを図っているのであれば、正しい行動と言えるかもしれない。来るかどうかも分からない僅かな一般客のために終日人を張り付かせるなどは無駄であり、余力がないとできないことである。

スキー客動向

 スキー人口(スノーボーダーを含む)の推移は、1985年頃まで緩やかに増加していたが、バブルとともに急激に増え、1998年をピークに減少が進んでいる。

 私が人であふれかえったゲレンデや何十分ものリフト待ちを経験し、「空いていること」をスキー場選びの第一条件にするようになったのはスキー人口が激増する前の1985年頃である。その後、スキー人口は倍以上になったにもかかわらず、リフト等輸送人数は2割程度しか増えていない。リフト待ちと道路の渋滞はますます悪化し、快適性の低下したスキーのブームはバブルとともに去った。
 近年のスキー人口はピーク時の4割程度まで減ってしまったものの、バブル前と同程度である。ただし、リフト等輸送人数はバブル前と比べても大幅に減少しており、1人当たりの滑りに行く回数が減ったことを示している。

つぶせないスキー場

 これだけ需要が減れば、スキー場の淘汰は当然進むことになるが、そのスピードは遅い。過去に長野県のスキー場を対象に行われたアンケートでは、赤字だとの回答が6割を超えていたそうである。それでも簡単につぶすわけにはいかないのがスキー場である。閉鎖すれば宿泊施設など周辺の産業へも影響を与える。また、廃業する際には山を自然の状態に戻さなければならないという事情もある。そうであるなら、どうにかして立て直すことを考えるしかない。

変わるスキー場

 そんな中、全国で経営不振のスキー場を立て直し、急成長を遂げている兵庫の会社が、テレビ東京の「カンブリア宮殿」で紹介されていた。その会社の社長によると、世の中の多くのスキー場は、雪山でリフトを動かしてさえいれば客が集まっていた時代から変わろうとせず、他の業界なら当たり前のマーケティングを行っていないとのこと。実際、その会社では、スキー場ごとの特徴を生かしてそのスキー場でしか持ち得ない役割を考え、他のスキー場に負けない売りを作ることで売上を伸ばしているそうである。簡単なことではないだろうが、斜陽産業などと呼ばれることもある業界で、まだまだやれる余地があることを実証してくれている。
 その会社に限らず、海外客の取り込み、豊富な食堂メニュー、小さな子供連れでも遊びやすい環境作り、レンタルスキーの充実、リフト営業時間の延長、周辺スキー場との連携など、顧客満足を高める取り組みや営業努力をしているスキー場に対しては、一人のファンとして心より応援したい。逆に、まだ何も変わろうとしていないスキー場に対しては、動くなら今のうちだと言いたい。じわじわと淘汰が進む中、全てのスキー場が潤うほどの需要はないのだから。


リレー執筆第13回/H28年6月1日  福島 繁
「“経営診断”折々の教訓」

 経営コンサルタントは“書く”ことが多い職業である。特に重要な書きモノに「経営診断報告書」がある。30歳前、経営コンサルタント会社へ入社以来、大小合わせ約200社の経営診断報告書を書いてきた。我々の主目的は「会社を良くする経営協力・経営支援である」 その出発点として「経営診断」がある。「経営診断」と「経営協力・支援」とは表・裏の関係にある。「経営診断」の重要性からして毎回、多大の精力と時間をかけ調査分析・考察し報告書を書きあげる。約200社の報告書はコンサルタント稼業の最も大きな成果物であり、財産である―医者の最も大事な財産である「診断症例集」と同じであるー
 企業は100社、100様、それぞれの会社の経営診断で顧客に提案する診断内容は1社ごと異なり固有のものである<Individual Problem Individual Method> 同時に我々コンサルタントが1社ごと折々に得る教訓・感想も様々である。忘れられない思い出もある。幾つかのうちの3つを記すことにする。

その1 最初の「経営診断」―精留塔へ昇り化学工場診断―

 28歳の時、“糸へん”の会社から経営コンサルタント会社へ飛び込んだ。6か月後 中堅企業の総合経営診断チーム(8名)に加わる。3年先輩の製造部門担当チーフの下、サブ診断員である。始めてヘルメットを被り安全靴を履きトール油の高い精留塔に恐る恐る昇る。設備管理診断からスタート、品質管理、原価管理・・・と進める。現地調査、インタービュー、資料分析、会社に寝泊まりし取り組む。始めての化学業界、顧客が価値を認めてくれそうな改善策がなかなか出てこない。 そこは先輩主体の提案力で報告書は作成できた。総括責任者の厳しいチェックもあった。各部門のチーム力を結集する総合診断としての報告会は成功裏に終了する。総合診断の多面的分析と多くの作業に面くらい何が何やらわからないまま終了してしまう。 3か月後、先輩コンサルタントは診断能力に限界を感じたのかこの会社から去っていった。この事例を含め新人コンサルタント期に「経営診断を1社担当すれば寿命が1年短縮する」という小生なりの経験則を掴んだことを覚えている・・・・・・・・・・・
 それから幾星霜を経た現在、この会社は東証1部上場まで発展した。今も時々、その精留塔を眺めることがある。200社余も診断したのに私の寿命は続いている。おかしなことだ?“と一人笑いする。「原点忘れるべからず」ということだろう。

その2 初の海外企業診断―韓国の紳士服メーカーー

 35歳、潟^ナベ経営のチーフ・コンサルタント時代、マーケティング専門部長のもと韓国・紳士服メーカーの戦略診断を行った。4名のコンサルタントで3回、訪韓した。この会社は当時からダイナミックに発展中のサムソングループの子会社である。紳士服は同国でまだレディ・メイド市場になっていなかった。ブランド化を図りながら既製服市場を創り、業界トップ企業として主導権をとることが主な診断目標であった。総合戦略、経営計画、営業、生産の4分野で診断する。小生は経営計画を担当した。調査・分析の診断手法は日本国内の方式と同じである。だが取り巻く経営環境、市場構造、経営風土等は大きく異なる。真の実態を把握することは難解だった。韓国経済の成長エネルギーが旺盛の中、当社の社員意欲は高く働きぶりも活発である。我々診断チームへの協力姿勢も大変、良い。それに合わせこちらも昼間は現地調査、夜はホテルで討議と集中作業で対応する。営業担当のA君は早朝、ソウルからセマウル号に乗車し沿線の市場調査のため出発する。馬山に一泊して翌晩、ホテルへ直帰する韓国縦断の市場調査をやってのけた。総合結論として売上げ5年後約3倍を目標とする中期計画を策定し最終報告をした。
 <内心、強気すぎる高成長計画かと気になった>
 グループ百貨店の発展計画との連携も見込んで思い切った勧告をした。帰国後も計画がうまく進んでいるかが心配だった。すると数年後 当社の診断窓口担当部長が業界調査を兼ね来日された。久しぶりに再会すると「中期計画は予定オ−バーで発展中」ということだった。改めて診断成功の御礼“の言葉もあった。ほっとした。同時に我々の診断力が海外<近隣国>でも通用することを確認した。 続いて台湾企業の診断にも関与した。

 我々の診断力が海外<近隣国>でも通用することを知り少しの自信を持つことができた。又、国際的視野で日本企業を診る”着眼点を養う初めての機会にもなった。

その3 独立後の初診断―「新幹線」車中で必死に書いたー

 38歳で独立後、まもなく元勤務会社から独立祝儀のような流れで経営診断の依頼を受けた。当時、この会社はメキシコ等海外3か国に生産会社を持つ日本有数の産業用繊維資材会社であった。1960年から70年代、日本経済は高成長し人件費が高騰、繊維業界の殆んどが国際競争力を失った。当社はいち早く海外生産シフト化を図りこの面では軌道に乗った。が反面、国内工場群の衰微が大きな問題となった。本社工場を含む3工場の構造転換を図る経営改革案を策定することが診断の命題だった。我々3名が診断にあたる。小生は主に3工場の構造転換立案を担当した。当工場はもともと若手社員として鍛えられた職場である。又合理化プロジェクトの旗をあげた場でもある。10数年を経て今度は経営コンサルタントとしての再訪問である。「鍛えられた工場へ今回は改革提言」それは一見、異常な関係であり無理に思える仕事であった。だがかえって闘志が大きく湧いた。
 <私の診断スタイルはラストスパート型>
 現地調査、・現状分析を徹底して行う主義だ。仮設をたて納得ゆくまでギリギリ考察する。それだけに報告書締め切り前の一気珂成な報告書作成となる。今回もいよいよ締め切り日が迫ってきた。ところがこの時、たまたま東北・仙台での「社員研修」の別件受注が入った。金・土・日曜の超ハードスケジュールである。日曜の午後、仙台で研修を終え新幹線に飛び乗った。大阪に帰るまでに報告書をあらかた仕上げなければならない日程である。診断結論のゴールを見極めながら必死に書いた。当時はパソコンもなかった。座席横の人に一瞥もせず、ただ原稿用紙に打ち込む。東京駅で東海道新幹線の乗り変えたことだけは覚えている。窓の外の景色を見る余裕はなかった。不思議にも新大阪駅に着いた時には提案策がまとまっていた。@本社工場は敷地3000坪の半分を用地転換し「新規事業・ゴルフ練習場の開設」A鳥取工場は国道9号線沿いを活かし「ホームセンター出店」 B山口工場は「ノリ網専門工場化」 もちろんこれらの転換策を提起するために事前3か月は全速力で情報収集等の準備調査を行っていた。


 「車中、必死で書いた事、不思議にも診断の解が明確にまとまった経験」は今も忘れられない。その報告書は現在も我が事務所で大事に保存している。


リレー執筆第14回/H28年8月22日  中島 和樹(代表)
東芝事件に学ぶ不正会計の心理

 株式会社東芝の不適切な会計処理問題は、昨年の決算発表を遅延させただけでなく、監査法人の責任まで問われるという結果を招き、上場企業の会計担当者および経営者を震撼させた。その理由は、これらの不適切会計処理が東芝固有の問題ではなく、IT事業に携わる同業他社において、意図せずして発生し得る現象だったからである。
 東芝の場合は累積した金額が桁違いに大きく、経営者の意図が働いていたために決算発表ができないほどの大きな不正に発展した。
 私は、東芝の競合会社である大手電機メーカーの関連会社に出向して、経理責任者を8年間努めたが、これらの問題ある会計処理を経験した。今回の東芝事件は、これらの不適切会計の存在を世間の衆目に晒すことになったが、あらためてそれらの真相と改善策について考えてみたい。

T.不適切会計処理の4類型

 東芝第三者委員会の調査報告書で調査対象とされた会計処理は、以下の4つである。
 @工事進行基準案件における工事原価総額の見積もりと工事損失引当金の未計上。
 A経費計上に係る会計処理。(引当金の計上時期、仕入原価の翌期繰越など)
 B在庫の評価。(標準原価の改訂と廃棄処理)
 Cパソコン事業における部品取引等。(「Buy-Sell取引」)
 動機は、総資産回転率を最重視する経営方針のもとに、「チャレンジ」と言われる当期利益の嵩上げを強いられたためで、これらは全て利益を過大に歪めるものである。
 本稿では、「@工事進行基準案件」について具体的な内容を検証する。

U.具体的な工事進行基準の事例から

 「工事進行基準」とは、複数の決算期にまたがる長期大規模工事について、会計期末の工事進捗度に応じて収益と工事原価の計上を認める会計基準である。従来の「工事完成基準」では、工事が完成した会計期間にその工事の完成売上高と原価総額が計上される一方、工事期間中は収入費用ともに一切計上されないため、会社としては歪な業績推移になっていた。
 「工事進行基準」は、建設業などでは早くから認められていたが、東芝のようなシステムの受託開発で容認されたのは最近のことである。それまでは、受注分割などの方法で収入費用の部分計上をする慣習もあったが、税務調査などでは否認されてきた。
 東芝第三者委員会の調査報告書では、具体的な工事進行基準の事例を取り上げて、様々な不適切会計処理の発生パターンと各関係者からヒアリングした対応を詳細に報告している。
 A案件は地方自治体からの受注であるが、将来の拡販につなげるため、見積原価90億円に対して71億円で入札したが、工費削減交渉等が成立することを前提として受注時に工事損失引当金を計上しなかった。
 B案件は国立研究開発法人からの受注で、見積原価総額34億円に対し、事業戦略上の必要性から21憶円で受注したが、工事損失引当金を計上しなかった。また、信頼性のある見積原価総額であったにも拘わらず工事進行基準を適用しなかった。
 C案件は発電所の付帯設備装置に関する案件で、11億円で受注したが、検収時にトラブルが続いたにも拘わらず、その費用を見積原価総額に含めていなかった。
 D案件は発電所の製造を当初189億円で受注した案件であるが、外貨購入品が見積原価に含まれており、為替レートが受注時の1ドル85円から大きく円安になった。見積原価総額の修正を行わなかったため、工事損失引当金の計上もしなかった。
 E案件も発電所から545億円で受注した案件であるが、資材価格の高騰によりコストが上昇し、毎年損失が膨らんでいたにも拘わらず、完成時に69億円の損失が計上されるまで工事損失引当金を計上しなかった。
 F案件は発電所に発電機を設置する工事であるが、306億円の受注金額に対し20億円の損失が見込まれていたにも拘わらず、具体的な裏付けのないコストダウン策を織り込んで工事損失引当金を計上しなかった。
 G案件は連結子会社が受注した発電所であるが、同社が報告した設計変更及び工事遅延等による見積工事原価総額の増加見積値を東芝が過少に評価したものである。東芝の見積値は根拠のないものであり、米国の監査法人から指摘を受けて、日本の監査法人は未修正の虚位表示とした。
 以下、売上高10億円以下の案件や東芝が自主的に申告した案件を含めて、事例の数は19件にもなる。

V.不適切な会計処理が生まれる原因と背景

 以上の問題が生じる背景には、長期請負工事に内在する独特の難しさがある。第1の問題は、請負金額と見積工事原価がなかなか確定しないことである。最初に仕様の打ち合わせをした後で両者の勘違いや言い忘れが発覚することは多い。また、制作途中で追加の要望が出てくることもある。この場合、作業の手戻りが生じると思わぬコスト高になる。客先要求であれば請負金額に反映させることができるが、制作側のミスであれば忽ち赤字受注になる。また、注文書と請書を文書化していない場合は、トラブルの原因にもなる。
 第2の問題は、長期にわたる請負工事の損益を人為的に区切った会計期間にどう配分するかである。「工事完成基準」においては、完成工事の有無によって各期の売上高と損益が大きく変動し、会社の業績を正確に表示できない問題があった。また、完成引渡日が1日ずれただけで、対予算の売上高と損益に大きな差異が生じていた。「工事進行基準」は、この問題を解決してくれるかに見えたが、今度は人為的な恣意性が介入するという厄介な問題が生じている。
 今回の東芝事件で焙り出されたのが、この恣意性の問題である。会計基準は「工事進行基準」と引き換えに、工事損失引当金の計上を要求する。これは、会計基準が目指す適正な期間損益計算と保守主義の原則のためである。
 第3の問題として、そのような恣意性がどのような形で現れるかということである。人間の本能として、自分に不利になることは成るべく言わないでおこうとする。赤字受注が発生した時でも、場合によってはコスト削減や値上げ交渉に成功するなどして取り返せるかもしれない。何も先走って工事完成前にロスコン案件(2億円以上の工事損失が発生している案件)であることを告白し、工事損失引当金の計上を申請する気にはなれないのである。東芝の場合、ロスコン案件の規程とは別に、上長の決裁が無ければ工事損失引当金の計上ができないルールもあったという。

X.抜本的な不正会計防止対策

 東芝第三者委員会の調査報告書では、第7章「原因論まとめ」と第8章「再発防止策(提言)」の中で、「直接的な原因」と「間接的な原因」についてまとめている。
 「直接的な原因」の多くは東芝の企業風土によるところが大きく、経営者などの意図的な動機も働いて、多額にのぼる不適正な会計処理の結果を招いた。しかし、「間接的な原因」については、経理部、内部監査部門、経営者などによる内部統制機能に関して教科書的な指摘がなされており、これはどのような会社にも共通の問題である。
 本当に有効な防止対策は何か考えるためには、何が欠けていたかを知ることである。調査報告書では通奏低音のように、内部統制機能を果たすべき経理部門などが、何も知らされていなかった、あるいは知り得ても何もできなかったという記述が出てくる。製造企業において経理部の権限が弱いのはよくある話である。
 前職の会社においても、元請の大手電機メーカーも含めて、経理部には内緒という話が多かった。情報システムも、会計システム、受注システム、生産管理システムが独立して存在し、人手を介さなければ情報が流れることはなかった。これらを自由に見ることができるのは国税局の税務調査官だけだった。
 私は、全社のシステムを統合して情報を共有することを主張したが、本社への復職辞令を受け取り、見果てぬ夢となった。


リレー執筆第15回/H28年10月2日  久保田 稔
第4次産業革命

 今年3月頃、囲碁のAIソフトが現在の最強棋士の一人とされる韓国のプロ棋士に5番勝負を行い4勝1敗で勝ったとのニュースがあった。囲碁は極めて高度で迅速な解析力や判断力を要するゲームと思っていたが、プロ棋士を超えるAI技術力の進歩に驚きを感じた。近年のITやAIなどデジタル技術は革命的な進歩があり、様々な分野で実用化が進んでいる。技術革新が多種の産業で実用化され社会構造の変革まで生じる現象を産業革命と経済学者が定義したが、現在までに3回の産業革命とあったとされ、近年は第4次産業革命期と見なす考え方が各種メディアに登場している。過去の産業革命期と鉄鋼業の技術史をごく概略回顧してみる。

第1次:18世紀後半、イギリスにて蒸気機関が開発され各種産業で用いられ、機械化された工場や蒸気機関車などが実用化された。動力源は石炭が主力となり、鉄鋼業でも従来の木材エネルギーより高温処理が可能となり大幅に生産が効率化された。

第2次:19世紀後半、重化学工業が工業の主力となり、動力源は石油と電力へと移行していった。鉄鋼業では、この時代に鉄中の不純物を効率的に除去する大型平炉が開発され、各種工業の基礎資材供給の役割を担った。

第3次:20世紀後半、工業製品の生産工程の自動化が進んだ。鉄鋼業も自動化・連続化・大型化が著しく進んだ時代であった。

 日本では、明治期以降の富国強兵政策のもと戦前まで第1次・第2次産業革命が同時進行し戦後も民需品生産では欧米技術に追いつき追い越すことに躍起となった。しかし、第3次産業革命は日本が世界の主導的役割を果たすまで技術力で優位に立った時代であった。

 ITやAIを中核技術とする第4次産業革命には日本は出遅れている。家電産業の凋落は、その一例であろう。技術がアナログからデジタルに変化したにもかかわらず、製品設計製造体制を特定の下請企業との擦り合わせで総合力を発揮するインテグラル型から脱却できなかったことも一要因と思考する。デジタル製品は部品間の調整を不要とするモジュール型製造技術を可能とし、その技術の優位性を発揮したグローバル企業が出現した。液晶テレビでオンリーワンを目指し巨額を投じ亀山や堺工場を建設したシャープは、ファブレス企業のアップルやEMS企業の鴻海などとの競合で劣位となった。電子産業のビジネスモデルの変化は特に激しい。

 約6年前より、ドイツでは「もの作りでの敗北は国家の衰退と同義」との認識のもと「Industrie4.0(第4次産業革命)」に国策として官民挙げて取り組んでいる。一方、日本では安倍内閣は9月より第4次産業革命を中心に据えた首相を議長とする「未来投資会議」を新設し着手している。この産業革命は2次産業だけでなく生産性が低いとされる1次・3次産業の競争力向上も期待される。技術革新は民間主導で行うものであるが、産業革命の実現には官の発想転換による大胆な構造変革が求められる。また、産業革命期には、経営革新意欲の有る中小企業にビッグビジネスチャンスをもたらすであろう。


リレー執筆第16回/H28年12月19日  千田 徹夫
阪神大震災共助とオンリーワン経営に見る「愛」
社員への愛から優れた経営へ

 県下ではユニークで優れた企業が多く生まれ育ち、国際的な評価をも受けている。
 金属加工分野のT社の第二創業を遂げたW氏。経営者の役割は、社員を心から愛し、モチベートすることと断言し、職人を大切にし、技量をフルに発揮させる組織を手間暇かけて創りあげ、多品種微量受注生産のビジネスモデルで成功した。同社では今何を狙い・なすべきかWhat to Doを明示し徹底している。それを受けて各部門と個々の担当社員も、何をすべきかを熟慮し互いに確かめ合っている。
 ある工程の装置の目立つピンクの塗装の理由は「担当者の好み」とか。旧来の経営の哲学では、外形の統制から組織を成り立たせるので、あり得ない。だがWhat to Doが明らかな当社では、装置の塗り色などは趣味で決めても、組織運営は力強くこそなれ揺らぎはしない。
 従業員満足を、掲げる企業は多いが、それは顧客満足などと並列するのが普通。当社では、顧客満足をとりたてては考慮せぬと言う。だが社員の業務への意欲は高く、納期をほぼ100%完遂し、結果として顧客の満足度は高い。

その朝開いていた診療所

 1995年1月17日早朝 阪神大震災、思いがけぬ大災害に日常依存する文明・利便のほぼ総てが停止・崩壊した。
 住宅の倒壊と負傷者が続出。ライフラインの機能停止と、医療機関の多くも休止。
 まちの機能が麻痺し、何を頼るべきかも不明。都市社会も倒壊かと危惧したが、光明があった。
自作短歌が残る 「頼り無く 文明潰えん 瀬戸際を 魂触れて 人ら支え合う」
 息子が軽傷、大事をとって頼った掛かりつけの外科・整形外科と内科のT医師は、朝から扉を開放していた。診察室や措置室は、見なくとも使えず、ほの暗い待合室で。日ごろは座りにくいと不満だった背凭れ無しのソファーは、そのまま急患用のベッドであった。万一の際は町の人々を護るとの医師の意気が、まっすぐに伝わって来る。
 重症患者からのトリアージ、手すきの人、もっと灯りを。軽傷の君はマッサージを。
 レントゲンの使える大きい病院、転送できる所を探して。停電で当院のはダメや。重症の骨折が沢山、レントゲンで診ないと治療の方針が立たん、大急ぎで。
 山のK病院へ、救急車無いか。寝かせて行ける自動車を何台か。荷物を道端に下ろし避難は後回しにした大きな乗用車。
 患者の付き添い、軽傷者たち、気遣う近所の住民たち、臨時救急車隊と、助け合いの輪がどんどん拡がって行く。
「きれいな水、僕が飲むのやない、傷口を洗う。見て、薬も包帯もダメや、泥と埃でまみれた患者さん、診た後、せめて傷口を洗いたい。急ぐ。沢山。」
 水を、最初に提供してくれたご婦人の「お茶の水」は、コップ一杯分ほど。怪我人は多数、足りんと怒鳴りかけて、お家の最後の飲み水と気付く。冬とはいえ家族の喉が渇けば、これしかない。本気で怪我人の手当てを気遣うご婦人は、後先の計算は抜きであった。
本当の援け合いはこの純な心だと、胸を打たれた。
懸命に医師を援けている心算で、文句無しに協力を得るよう上手く言おうと、計算している自己防衛の心理を醜いと恥じた。素直に、見習おうと、切り替えた。計算抜きで傷洗う水をと呼びかけると、出遭う人が皆とても優しかった。
 医薬の調達を医師から求められたのは3日目、医院からは通じない電話番号と、カナで3行の薬品名のメモを持ち、あてどなく自転車で出発した。
 人の出入りする区役所の保健所ならと思いつき、窓口を訪ね来意を穏やかに告げると、メモは見てくれたが、「医薬を配るのは区内の診療所全部に公平にするから」には頭へ来て、「診療所の当日からの働きを見て言うのか、実情を知らぬ役所はダメだ」と去った。顔見知りの区の幹部の助言があったのか、後に白バイか何かで医薬の供給はあったそうだ。
 この区の幹部さんは臨時救護所の所在を教えてくれた。東灘の西の端の公会堂の救護所の若い医師はもう暇そうで、リストを読んだ後「化膿止め、下痢止めに風邪薬か、贅沢だねえ。ここには無い」臨時救護所に救援の医師なら、さしあたりの救命だけ考えていたのが分かる、私も素人なりに同じ観念だった。
私は急に胸が熱くなった。重傷者の救命に忙しいT医師は既に、住民の平静な生活のための健康維持を目指し始めていたのだ。
私にも復興・再生への希望が沸きあがってきたのだった。

ご近所同士の共助の力

 ある研究レポートに『生き埋めからの生還者の75% は近隣同士の助け合い・共助に依っており、救助隊員・公助による生存者は25%』とある。私の見聞からその共助は主に1月17日震災当日のことだろう。
 道路網壊滅とのニュースで、外部からの救援は数日期待できぬと素人なりに覚悟したが、翌朝は近所の被害の激甚な地域が、消防さんでいっぱい。後に聞いたが近隣地をはじめ西日本各地からの救助隊員は、徹夜で障害だらけの行路をほとんど自らの人力で切り拓き急ぎ到着してくれていた。
 だが神戸市の資料では当日中の救出こそが生死の最大の分かれ目であったのだ。
 (1月17日当日に救助されたものの生存率は80% 一晩閉じ込められて
 翌 18日に救助された人の生存率は   29% と大きな差がある。)
またある研究では、直後のこうした住民同士の共助の救命活動がもし無かったら、6千4百余の直接死が、数倍に増えていたはずだと言う。翌日の救出では生存率が大幅に下がる先のデータからも、納得できる。普段我侭に見えた市民らが、東日本大震災のかの犠牲者を上回る生命を護り得たことになる。
 東灘区では、直接死が1471名で最大の被害地と言える。年に7―8名の交通事故死の200倍、200年分の交通事故死相当が一朝に出たことになる。
 だが住民20万の0.7%に止め得た。住民同士の共助によると言えよう。
 私は一人も救っていない。只一人傷を洗う水探しを引き受けて駆け回っていた。その途上、全壊の住居前で佇む老婆に連れ合いは未だこの下だと告げられる。放置できない。だが水探しも急ぐ。少し向こうで、水のことを尋ねても反応無く、呆然としていた男達を思い出し「大きい声で向うまで叫べ。私は急ぐ」と言い捨てて走った。
 苦い選択で、結果が気掛かりであった。
 夕刻水探しにめどが立ち、様子の分かる人にそっと尋ねると「すぐ集まり、助け出した」と聞き心安んじた。かく、罹災者で、用具も、組織も無い人々の手で、多くの人命が救われた。
 その動機は人間愛だ。かの僅かな飲み水を負傷者を洗えと差し出した婦人と同じ、生命を慈しむ優しい心に発し、できることから、知恵と力を出し合った結果と言うほか無い。

官と民との折り合い

 復興には『折角古い神戸が壊れたのだから新しい神戸を創ろう(神戸大T教授=当時)』など創造的な復興を目指そうとの意見が各方面にあったが、担当官僚は「復旧にはすぐ予算を付けるが、新たな試みが加われば検討の為後回し」罹災地に焼け太りを許すと他の地域との公平を欠くだとかの論理だ。創造的復興へは、後の災害においても進歩が無い。
例えば港湾施設復旧には数千億円の巨費と歳月を費やしたが、復旧は出来ても既に時代の要請に合致せず、一部は間もなく解体し発途国の施設に譲渡、跡地は大学などとなった。最近もアジアの新興の港との競争で、神戸は設備能力ではるかに遅れている点が課題となっている。
 阪神大震災で市民の共助が多数の生命を救ったのは明らかだが、この事実を役所筋は積極的に伝えようとしない。
ちょっとした地震に国営テレビは全チャンネルで一斉に同じ画面をくり返し「危険な所(倒壊した家)にちかづくな」と繰り返す。
最近もどんな罹災地へも72時間で救援を出すと豪語した要人が居る。
我々の市民力の立証をまともに否定されたようで、違和感がある。とは言え偏ってもなるまい。為政者からの市民協力の宣伝は、要注意だと戦中を知る私には思える。
 太平洋戦争の末期、無理な戦争を継続するために「銃後の守り」等と精神面の運動・宣伝がしきりだった。焼夷弾爆撃に備え母親たちは、防火用水のバケツリレーの訓練を強いられ、小国民は本土決戦と称し竹槍を持たされた。いずれも客観的には危険で、効果は無い。軍部政権が戦力・施策の不足を民間の精神運動へ押し付けようとした誤りは、繰り返させてはならない。微妙なところだ。
 だが市民が・ご近所同士が、3日目の救援を当てにして、危険も伴う共助を控えたら、当地のように99%が生き残れはしまい。
 官と民との折り合いは悩ましいが、旧来の官依存から昇華し、落着を図らねばならない。

慈しむ心で出来ることから

 旧来の価値観・哲学が、いまだに世の中の大事な局面の多くを決めている。
冒頭のW社長は、その言い値を護りNoと言える新たな哲学の経営に、挑んだ当初は社内外の先達にも、コンサルタントにも反対され、異端の経営だと自らも思った。だが、今日の烈しい競争の下で先進的な企業のあるべき姿だと思える(記憶を元に要約出典等は3月14日の講演までに確認します)と語っている。
社員への愛が、新たなビジネススタイルの提唱にまで至っている。
 震災体験の語り部として、わが町での震災時の、優しさに発した共助を語ると、若者達は共感し傾聴してくれる。そこで私はさらに言う。
 『あなたたちの優しさは、かのとき助け合った仲間のそれと同じだ。この優しさを持ち続けてくれれば、君たちの町でも万一のとき、わが町神戸と同様の共助が始まるはずだ、周りの人たちとともに、本物の優しさを持ち続けてほしい。』これも納得を得ると更に
 『天災の時だけか。愛する未来の家族・仲間たちの命を危うくする、くだらない犯罪・環境破壊・紛争などについても、命慈しむ優しい心で、出来ることから、知恵と力を合わせあえれば、君たちの21世紀は、きっと光り輝くものとなる。
 私たちの20世紀には、戦後の飢餓状態を立て直そうと、古い価値観でわき目も振らず働かねばならなかった。その「優しさなど邪魔だ」というような古い哲学は今も私たちの多くを縛っている。
 君たちも、格差社会・人工頭脳やロボットに負けぬようしっかり勉強し働け、だが優しさまで捨てることはない。まず飢えることは無いのだから』と。
 こうした新しい哲学への提唱を若者たちは受け止め共感してくれている。世の旧い仕組みや哲学に対し、人間愛などに発した新たな胎動は少しずつ力を付けてゆくものと期待し、自らも貢献したいと思う。


リレー執筆第17回/H29年4月18日  塔筋 幸造
インド視察旅行記[交通事情雑感]

 2017年2月〜3月にかけて、インド視察旅行に出かけました。
当初の仕事の目標は無事達成をさせて頂きましたが*1、せっかくのインド訪問での雑感をご報告したいと思います。

 まず人口の多さには感心するとともに、活力源としての人口ボーナスの対象国ともいえます。

 中国      13億6,782万
 インド     12億7,672万
 バングラ     1億5,985万
 韓国        5,042万
 ネパール      2,843万
 スリランカ     2,110万
 ブータン        77万
 (いずれもIMFより)

 今後40年間で成長余力のある国としての中国との人口の量での双璧ですが、中国が高齢化社会の問題がある現実を加味すると、インドの成長余力は高いといえます。

 今回は3都市のみを回る行程でしたので、全土では違う現象もあり得ると思います。
 まずは交通事情でしょう。
 東南アジアでも、激しい交通量の都市は多くありますが、インドの現状はやはりトップクラスでした。
 確かに運転が荒く、混雑時は車間距離数十センチくらいで流れます。また、二輪、三輪(ツクツク)の数が多く、どんどん割り込みは当たり前、追い越したりしながらも流れます。追い越すときや、ホーンを鳴らし続けます。どの車もホーンを鳴らしますので、うるさいだけで何が何だかわかりません。カーブでも平気で追い越します。二重追い越しも多く、これも危険です。道路脇にはさまざまなものがノロノロと“走行”しています。牛車、牛などの家畜です。そのほか、野良牛、野良猿、野良ヤギを多く見かけました。

 歩行者もルールを無視して渡ってきます。
 信号で止まると、子供の物乞いや本や新聞、果物などのモノ売りがよってきて、車を取り囲みます。中に乗っているのが外国人だとわかると、さらにアピールしてきます。やがて青になるとまた走って去っていきます。バスでも同様です。

 歩行者が密集するマーケットの中を車が徐行しながら無理矢理突っ込んできたりします。インド人の方は列車が遅れてもまったく動じないとのことです。これは数分遅れでイライラする日本人と比べて寛容です。

 しかし、自分が運転するとなると真逆になります。日本人はお互いに道を譲り合いますが、インド人運転手たちは、「道を譲る」ということを知りません。ガイドの方から聞いた話ですが、「日本で交通事故を目撃したとき、当事者同士がお互い冷静に対処しているのを見て驚きました。インドで交通事故はよく見るけれども、考えられない。お互い罵倒するのが普通ですよ」とのことでした。交通事故に国民性が出るかもしれません。
 短い滞在中のバスも、急ぐからと信号無視をするのを体験してしまいました。
 いくら早朝でも、背筋に寒気が走ってしまいました。

 1日の交通事故死亡者数は世界第1位

 インド犯罪記録局の1番新しいデータ(2008年)では、1日当たり396人が交通事故で死亡、1297人が負傷しているとのことです。これは自動車の数がインドよりずっと多い中国と比較しても多い数字で、もちろん世界1です。

 日本では、交通死亡事故は年々減っていて昨年は5000人を切りましたが、人口でいえば10万分の4の確率です。インドでは、10万人以上の死者があり、登録自動車台数と事故の比率でいえば、インドでの交通事故発生確率は、日本の約50倍ともいわれています。

 インドでのビジネスを考えるときは、交通事情と事故についての考察や対応が重要です。

*1 守秘義務のため、ビジネスの内容は割愛いたします。


リレー執筆第18回/H29年5月10日  福島 繁
「家島諸島の考古学」展示会

 4月初旬、桜の頃、姫路市埋蔵文化財センターへ「家島諸島の考古学」展示会を見学に行く。私事ながら家島は小生の郷土である。昨年は「地方創生」研究で“現在の島おこし”を含めた小論を発表した。今回の展示会は、郷土に”はるか古い歴史がある”ことを学ぶ機会となった。

 どこの地域にも人の営みの始まりがあり、その地、固有の歴史がある。家島諸島は奈良時代に編纂された「播磨風土記」に「伊刀嶋」として登場する。姫路港の南西約20キロメートル、播磨灘に浮かぶ大小20余りの島々からなる。“島々の歴史は古く、約2万年前の旧石器時代からの人々の足跡が連綿と刻まれている。家島諸島の本格的な調査は、昭和34年(1959年)行われた「家島群島総合学術調査」に始まる。三笠宮殿下が名誉団長を務められたこの調査では大山神社遺跡の発見、チンカドン古墳、マルトバ古墳など考古学の分野上でも大きな成果があった”と記されている(「家島諸島の考古学」姫路市埋蔵文化財センター冊子より)当総合調査は小生が高校生の真夏だった。島中が最高に盛り上がった記憶が残っている。

1 展示会の内容

 会場では家島諸島の大きな写真パネルや古代からの克明な年表が掲示されていた。世代別の遺跡が資料・出土品でリアルに展示されている。学術調査員の解説も大変、分かり易かった。主な展示内容は次の通りである。
 @ 家島考古学の先駆者・郷土史家中上實氏の著作・採集出土品の展示
 A 「家島群島総合学術調査」のレポート、採集資料、出土品展示
 B 家島諸島の各遺跡の紹介と土器、石器、斧、槍等の展示

2 家島諸島の歴史年表(俯瞰図)

“遠い祖先の生活がとり行われたであろう所を訪ねてその土の上に過去を想像し、明日の家島を建設し未来を進展する“バネ”にもなればと念願する“(家島の郷土史家:中上實氏)

 この言葉にも心動かされ展示会後、改めて身辺に残っている家島の歴史に関する古書、著作等を読み返してみた。亡父の記した資料も理解できる事になった。“吹けば飛ぶような将棋の駒”でないが“吹けば飛ぶような播磨の島”もやっぱりこんな古い営みが継続していることを実感し驚く。では太古からの家島の歴史をどう俯瞰すればいいのか?精密には歴史の専門家がやって下さるだろう。全くの独断ながら小生なりに「家島諸島の歴史年表(俯瞰図)」を今回は次の通りまとめてみた。

3 歴史の学び方・見方

 郷土の古代史に接し歴史に古い、遠いつながりをある事を改めて知る。同時にこの遠い、長い歴史をどう俯瞰し、どう学べば良いか迷った。これも本来は歴史学の基本があるのだろうが次のように整理することにした。いかがなものだろうか?

@ 歴史は何故、大切か?
―変化が激しい現代、未来に生きる人にとって遠い過去の歴史を学ぶ意味はあるか―
過去より未来が大切であるが「温故知新」 歴史を学ぶことが未来予測に役立つ
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

A 史実重視か? 伝承の意味は?
―ノン・フィクションか フィクションか―
あくまで史実、ノン・フィクション重視である。だが伝説・伝承は史実でないがその付近に史実が隠れていることがある。その意味で伝承も検証が必要である。また伝承のメリットは空想・ロマンの楽しみを与えてくれることだろう。

B 歴史はいつの時代から重視すべきか?
―古代史、中世史、近世史等が出揃えばいつの時代から重視してゆくべきか―
宇宙や生命の起源を探る人もいる。だが我々はせいぜい遡っても人の営みの始まりから探ることだろう。

 見学日当日 地元家島から同級生3名もたまたま訪問していた。遺跡周辺を走り回った頃を想い出し懇談する。久しぶりの再会も郷土史展示会開催のお蔭と感謝する。

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